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橋本努の音楽エッセイ 第16回「自分の分身のような音楽に出会った」

 

雑誌Actio 201010月号、24

 


 こだわりをもって、この人を紹介したい。フランスを拠点に活躍しているベトナム人のギターリスト、ヌエン・リー(Nguyên Le)である。どうも僕は、この人に特別の関心を寄せてしまう。もし生まれ変われるなら、この人のような人生を送りたいとも思う。まるで自分の分身のように感じてしまう彼の音楽だが、初めて接したのは、いまから13年前のこと。渋谷のタワーレコードで、Three Trios (9245-2 ACT) というCDを視聴すると、これが逸品で、ジャズの抽象表現を突き詰めた一つの鋭利な幻想作品のように思われた。

 ただそのときは購入せず、それから三年後のニューヨーク滞在中に、マンハッタンのダウンタウンにあるCD屋の地下で、破格のセールで売られているのを見つけて買った。(五ドルくらいだったと思う。)そのとき、なんとこの店では、視聴版として関係者たちに配られる非売品のCDが、安く売られていたのだった。

 当時の僕は、渡辺香津美やジョン・スコフィールドのようなギターリストに心酔していた。この種の表現の可能性をもっと突き詰めてみたい。そんな関心の延長に、ヌエン・リーのギターがあった。ニューヨークで聴くと、彷徨者としての彼の感性が、心に沁みてきた。アルバムThree Trios は、三種類のトリオ演奏を組み合わせている。一つは、ピーター・アースキン(ds)とマーク・ジョンソン(b)との共演で、ドイツのミュンヘンで録音。もう一つは、ダニー・ゴットリープ(ds)とディーター・イルク(b)との共演で、フランスのアミアンで録音。最後は、ルノー・ガルシア-フォン(b)とミノ・シネル(ds)との共演で、パリで録音されている。いまあらためて聴くと、どの演奏も、アフリカにルーツを持つジャズでありながら、アジア的な叙情性と躍動をもつことに驚かされる。アジア的なメロディの仕込みが随所に効いて、さながら旅のボヘミアンだ。

 彼の演奏を、一度テレビでみたこともある。でもそれは、カナダの女性ドラマーのツアーに参加するという依頼仕事のような演奏で、パッとしなかった。これほど独創的なギターリストといえども、食べていくためにはマルチに仕事をこなさなければならないのだと痛感した。その後、彼はどんな音楽へと向かったのかといえば、ちょうど渡辺香津美が『おやつ 2』というアルバムでアジアの伝統音楽へと回帰したように、彼もまたベトナムの伝統的な音楽を発見する旅へと向かった。

 2007年に発売された『壊れやすい美(Fragile Beauty)(9451-2 ACT)は、ため息が出るほど美しいベトナム伝統音楽のジャズ的作品。ベトナムの歌姫、フン・タン(Huong Thanh)の声には、心底癒される。このたゆたう声の魅力は、計り知れない。伝統音楽の基礎をみっちりと身につけ、いまは現代ジャズの最前線にいるフン・タン。ユーチューブで検索すると、フン・タンの艶美な声にあわせて、ベトナムの田園風景が現れてきた。山あいの水田を、そよ風がぬけていく。精神の故郷を映し出しているようだ。ヌエン・リーとフン・タンは、近代化するベトナムの世界に、新たな望郷の情感を生み出した。この風景と音楽のなかに、どっぷりと浸かるこの頃である。